soshiki--ex’s diary

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果報は寝て待て

「果報は寝て待て」ということわざがあります。江戸時代の元禄13年に刊行された『続狂言』という本の中に「果報は寝て待てということがある」という記載があるので、かなり古い時代に成立したものと思われます。

 

今日、一般的には果報とは良いこと、幸運という意味として理解されているようです。つまり、果報は寝て待てとは、幸運がやって来るのを寝て待っていればいい、というふうに理解することもいるようです。

 

そして、そういう感じに理解しては、このことわざを嫌う人もいます。

「寝ているだけで、幸運がやって来るものか。努力してこそ、幸運は訪れるものだ」

さらに、なかにはこんなことを言う者もいました。

「あのことわざは誤解されている。寝て待てではなく『練って待て』だ。つまり、よく考えて待つということだ」

本人は得意がっていましたが、もちろん、そんな解釈はありません。いろいろな書物や資料を調べましたが、何の根拠もないことです。まったくの間違い、デタラメです。こういう、頭の悪い輩が大した知識もなく思いつきのデタラメを並べることがあるので、時には要注意です。

 

なので、真面目にこのことわざを理解してみましょう。

 

果報というのはちょっと難しい言葉ですが、もとは仏教の言葉で、善悪の行為の結果を表した言葉とのことです。つまり、善いことをすれば幸運や良いことが、悪いことをすれば不幸や罰が身にやってくる、というものでありましょうか。

 

つまり、寝て待てといっても、何もしないわけではないようです。キチンと努力なり仕事をしたりして、その結果は「寝て待て」ということなわけです。

 

同じような意味の言葉として、「人事を尽くして天命を待つ」という句があります。中国の南宋時代に儒学者の胡寅によってまとめられた『読史管見』という書物が出典とされているようです。ほかにも、江戸時代の儒学者貝原益軒の著書などにも引用されているようです。

 

人事とは、簡単に言えば人のやるべきこと、天命という言葉は解釈が難しいですが、ここでは天が下す結果、判断といったところでしょう。やるべきことをすべて行って、努力を尽くしたならば、あとは結果を大人しく待つだけ、という意味になると思います。

 

要するに、果報は寝て待てにしろ、人事を尽くして天命を待つにしろ、何もしないでよいわけではありません。原因がなければ、結果はありません。でも、努力して工夫して、やるべきことをとことん尽くしたならば、その結果は得られる可能性があるというものです。それが、明日なのか、1ヶ月後なのか、1年後なのか、10年後か、それとももっと先なのか、それはわかりません。それこそ、天だけだご存知、ということなのでありましょう。

 

私的なことですが、2ヶ月ほど前、担当の奥様が道で転んで手の指を骨折してしまいました。骨折というのは厄介なもので、なかなか元通りにはなりません。現在ようやくリハビリという状態です。でも、焦っても仕方ないことです。じっくりと、治療するほかない。辛抱が必要な時も、長い人生にはあるということでございましょう。