soshiki--ex’s diary

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上杉鷹山「為せば成る~」について

上杉鷹山というのは、江戸時代中期の大名です(1751~1822)。米沢藩の第9代藩主で、名君として知られています。

 

鷹山のことは知らなくても、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」というフレーズなら、聞いたことのある人が多いのではないでしょうか。

 

このフレーズ、正しくは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という短歌です。藩主である鷹山が、家臣への教訓として作ったといわれています。また、その元ネタは、甲州の戦国武将・武田信玄が詠んだ短歌「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」ではないかとも言われています。

 

さてこの「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」ですが、よくこんな風に解釈されているようです。

「やる気があればなんでも実現できる。できないのはやる気がないからだ」

 

この解釈は、担当はずっと以前から違和感を抱いていました。

 

まず、どんなにやる気があっても、どんなに努力しても、できないものは出来ません。「人間は鳥みたいに飛べない」なんていう、つまらないたとえを出すつもりはありません。優秀で誠実な人が、努力に努力を重ねて、ものすごく慎重に行動したとしても、失敗したり、実現できないということはたくさんあります。

 

それから、ヘンな根性論をつけてこのフレーズを使う者がしばしばいるので、それが非常に嫌いでした。「為せば成る、というだろう。できないのはお前にやる気がないからだ!」そんな風に怒鳴り散らす、脳みそが筋肉で出来たような連中がいて、それが本当に大嫌いでした。

 

でも、担当も40代50代と年を取ってから改めてこの歌を読み返してみると、そんな体育会系バリバリの内容ではないようだと思うようになりました。

 

まず、「為せば成る」という言葉ですが、そのまま現代語にすると「やればできる」です。これは、そのままの意味でよいのではないでしょうか。「やる気」とか「何でも」なんていう装飾語は、どこにもありません。

 

では、「やればできる」とはどんなことでしょうか。

 

たとえば、部屋の中にいるとします。「歩いて外に出る」というのは、とても簡単なことです。赤ちゃんやお年寄り、身体の不自由な方などでなければ、誰にでも出来ることです。玄関まで行って、ドアを開けて外に出るだけですから。

 

しかし、やらなければ、実際に行動しなければ、絶対に外には出られません。死ぬまでずっと部屋の中です。簡単なことでも、実際にやらなければ実現しない。「為せば成る」とは、そして、「為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」とは、そういう意味なのではないかと思います。

 

学校や職場などでは、いろいろな「為す」ことがとてもたくさんあります。日常の勉強や仕事、そのほかにも、やるべきこと、やったほうがいいことなど、非常に多くの事があります。

 

ところが、「やりたくない」とか「やっても無駄」、「できるわけがない」などと言いだす人が必ずいます。大きなリスクを負うわけでもない、たくさんのお金がかかるわけでもない、実現不可能というわけでもない、重い責任が発生するわけでもない、それなのに「やらない」という態度の人がいるものです。時には「責任はこちらが取る」とか「お金は全部こっちが払う」と言っているのに、それでもあれこれ理屈をつけて反対する人がいたりします。

 

どんな計画や発想も、始めてみなければわかりません。たしかに、物事は失敗がつき物です。でも、やってみたら意外と簡単だったとか、予想以上の効果が出たということもよくあります。

 

実行してみれば、可能性が開く。でも、何もしなければゼロのまま。鷹山君の言葉は、そういうことを言いたかったのではないかと、担当は思う次第なのであります。